余命一年以内の宣告を受けて、死に至るまでの経過を記そうとしたうぇぶろぐである。
当人は既に身罷ってしまったようだが、最初から読んでも15分とかからないこの記録、
この記録の一つ一つが、地平のはてまで風抜ける草原に立ち、
静かな静かな悲しみの焔を燈す場所を探している。
さあ、誰に見える場所に燈そうか?
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実は・・・私、ら。も死ぬことが確定している。
ネタじゃない。過去に死ななかった生命があるかね?
ところが死に様は全くバラバラであり、「バラバラで死ぬ人までいる始末?」
人々が違う生き方をする根本的な理由はそれかもしれないなどとすら思う。
自分が死ぬという事を、lifeという単語を覚えるぐらいにするりと飲みこめたらな。
もし、もし貴方が知らなかったというなら悲しませるかもしれないが、
貴方も死ぬことが確定している。
さて、誰に見える場所に燈そうか?
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自分が同じような、あとどんぐらいとかそんな目安をつけられて
余生を送るとしたら、何か変わるだろうか。塞ぎ込んで終了?ぶち切れて終了?
不思議だ。死ぬこと自体はわかっているのに、まったく見当もつかない。
やはりアレだ、死ぬということは情報だが、
実際に死の宣告を受けて過ごすという事は体験だからな。
でもこのブログを少し読んだだけで、自分がそういう過ごし方をしている日々を、
まるで草原に燈された焚き火を見つめるように。
感情のもらい火。
時には両手で受けとめるほどに、快い暖かさ。


